巴里レター No.32

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       ☆ 巴里レター No.32 ☆

 
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 今回は、「北欧の旅」の続きを書いてみました。
 No.18以来ですね。


     ◇ 2001年 夏 北欧の旅 〔6〕 ◇

 パリを夜行寝台で出発したのが、7月15日の20時46分です。
 ハンブルグ到着予定が、翌朝7時21分。
 すぐにコペンハーゲン行きの列車に乗り換えて、
 ハンブルグ発7時28分、
 コペンハーゲン着11時59分の予定だったんですよ。
 そーゆー風に予約券買っておいたんですね。
 『ハンブルグで、あまり時間がないなあ。』って思ったんだけど、
 なんとなくラテン的に、『ハンブルグ到着の列車が遅れたら、
 乗り継ぎのハンブルグ発の列車も遅れるんじゃないかな。』
 って思ったのです。

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 二等寝台の一番上のベッドで朝を迎えて、
 「そろそろハンブルグですよぉ。」っていう雰囲気だったので、
 寝ぼけまなこで時計を見たら、7時45分でした。
 『あっ、やっぱり。』とか思ったんだけど、
 乗り継ぎの列車が待っていてくれるわけもなく、(ここはドイツだぜ)
 『次の列車でいいよ。』って諦めたのでした。
 
 朝は弱いので、グズグズしながら列車を降りて、
 予約の変更に行ったら、国際線のカウンターに、
 けっこう人が並んでるんだよね。
 『さすが、夏のヨーロッパ。』とか感心したんだけど、
 肝心の予約変更がねえ、
 次の列車も、その次も満席で取れないんですよ。
 全席指定の国際列車なんですね。
 だから結局、15時28分の列車になってしまいました。
 コペンハーゲン着は19時59分だって。 しょうがないよねぇ。

 時間が余っちゃったから、予定には無かったんだけど、
 ハンブルグを観光することにしました。
 
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 細い雨が降っていました。
 『初日というか、最初から雨かよ。でもくじけないもんね。
  なんてったって、これから2週間だもんね。』 
 と、自分に言いきかせたりして。

 ハンブルグというのは、工業都市かと思っていたんだけど、
 いま「地球の歩き方」を読み返してみたら、港町だったんですねえ。
 まあ、どっちみち行ったのは、市の中心部だけで、波止場の方とか
 行かなかったんだけど。
 
 街の雰囲気がねえ、フランスに比べるとスゴイ真面目なんだよねえ。
 波止場の方は違うとか、夜の駅はヤバイとか書いてあるけど。
 いつもイイカゲンな雰囲気にドップリ浸かってるから、
 こーゆーところに来ると、『なんかタイヘンそうだなあ。』
 って思っちゃうんだよね。
 『オレみたいなのは、こーゆーところでは生きていけねーぜ。』
 とかね。

 ドイツ人が、夏になるとスペインのマヨルカ島に大挙して押しかけて
 バカ騒ぎをするという話も、なんとなく解るような気がしましたね。
 こーゆーところで、真面目に一年間働いたら、
 やっぱり夏には南に行ってハメはずしたい、
 っていう気になると思いますよ。 

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 壊れたまんまの教会がありました。
 石の床とか、入口のあたりとか残ってるんだけど、
 『これって、ひょっとして第二次大戦で破壊されたままなのかな。』 
 って感じなんだよね。
 ベルリンには、そういう塔が残っていたけど、これもそうかなあ。

 ベルリンのあの塔って、「二度と愚かな戦争をしないように」
 という記念碑みたいなものだと思うけど、でもあれを見ると、
 ドイツ人が加害者であったということも、思い出すんじゃないかな。
 加害者であったということを、思い出すために残してあるとしたら、
 偉いよね。だって、日本には、そういうモノないでしょ。
 日本が加害者だったっていう記念碑のようなモノが。
 中国には、あるみたいだけど。朝鮮半島にも、あるかもしれない。
 広島の原爆ドームは、やっぱり被害者の立場の記念碑だよね。

 ここで、小泉首相の靖国神社参拝について、ちょっと書いておきます。
 あれは、やっぱりおかしいと思いますね。
 票田の維持のためとか、そういうこともあるのでしょうが。

 日本は唯一の被爆国として、
 「原爆は恐ろしい」というメッセージを、世界に向けて発信しているのに、
 どうして隣の国の人達の、「戦争は恐ろしい」という声に、
 耳を傾けないのでしょうか。 
 たとえばアメリカの大統領が、毎年、
 原爆を落としたパイロットの墓参りをするとしたら、
 日本人としては、「我々のことを、いったいどう思っているんだ。」
 っていう気持ちになりますよね。

     ∽     ∽     ∽
 
 アルスター湖に沿って少し歩いて、市庁舎の前を通り、
 聖ミヒャエル教会に行って、塔に登りました。
 (エレベーターで昇ったんだけど。) 
 塔の形が、フランスとは違いますね。
 フランスでは、丸い屋根を持った塔って、
 あまり見たことがないような気がします。
 塔の上から街を見下ろすとさぁ、やっぱり雰囲気がねえ、
 あんまり明るくないんだよね。まあ、お天気のせいもあったと思うけど。

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 コペンハーゲン行きの列車は、3両編成でした。
  『ホントかよ。3両編成の国際列車なんてあるわけ。
  だから、すぐに満席になっちゃうんだ。』って、納得したのでした。

 それに、列車の前面が、へこんでいるんだよね。凹になってるんですよ。
 『へんな電車』とか思ったんだけど、それなりに理由があったのでした。

                               (つづく) 

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   ◇ ルルド Lourdes 〔16〕 ◇

 ベルナデットは、1844年1月7日、ルルドに生まれました。
 父は、Francois SOUBIROUS.
 母は、Louise.
 妹が一人、Toinette.
 弟が三人、Jean−Marie.  Justin.  Pierre.

 父親は、粉引きとして働いていましたが、
 製粉の代金を払ってもらえないことも多く、
 家庭はかなり貧しかったようです。
 母親も、洗濯や掃除、季節の労働などをして、家計を助けていました。
 ベルナデットも11才のときから、子守や掃除などの仕事をしています。

 彼女は、喘息の持病もあり、病弱な子供でした。
 1855年には、コレラにも罹っています。
 一家の困窮は益々ひどくなり、「CACHOT」と呼ばれる、
 以前牢獄として使われていた狭い部屋に引越します。
 約18平米の広さの部屋に、両親と子供四人で住んでいました。
 (末っ子のPierreは、まだ生まれていません。)

 ベルナデットは、仕事や病気のために、なかなか学校にも行けず、
 1858年、マリア様が現れたときには、まだ文盲でした。

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 ☆ 1858年2月11日 (木) 最初のAPPARITION

 apparition は、日本語にすると「出現」という意味です。
 だから、マリア様の御出現とか御降臨とか訳すのでしょうが、
 あまりシックリこないので、フランス語のままにしておきます。
 (アパリションと発音します。)

 この日、14才のベルナデットが薪(たきぎ)を拾いに行って、
 マリア様を見たという話は、わりと知られていますが、
 実はこのとき、ベルナデットは一人ではなかったのです。
 妹のトワネット(アントワネット?)と、その友だちのジャンヌも
 一緒でした。

 ベルナデットの話を一人称で書いてみます。

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 私たちは川に沿って歩いていって、洞窟の前に来ました。
 最初に妹とジャンヌが、川を渡ろうとしたのですが、
 急に泣き始めたので、「どうしたの?」と訊くと、
 二人は、「川の水がとても冷たいの。」と答えました。

 私は、濡れずに渡れるところをさがして、
 もう少し遠くまで行ってみたのですが、
 なかったので、またその場所に戻ってきました。

 川を渡るために靴を脱いで、靴下をひとつ脱いだとき、
 なにか風のような音を聞きました。
 振り返ってみたのですが、木は揺れていませんでした。

 もうひとつの靴下を脱いだとき、また同じ音を聞きました。
 目を上げて洞窟の方を見ると、そこに女性が立っていました。
 白い服と白いヴェールで、青い帯と、足には黄色い rose を
 つけていました。数珠の鎖の色も黄色でした。

  (僕は最初、rose というのは、当時の履物の一種かと
   思ったのですが、これは文字通り薔薇の花でした。
   ちょっとビックリ。マリア様、オシャレですね。
   というか、あまりにも意表をつくモノだったので、
   やっぱりベルナデットは、本当に見たんだろうなって
   思ったのでした。)  

 私は、何かの間違いだと思ったので、目を擦ってから、
 もう一度見てみました。
 そこにはやはり、同じ女性が立っていました。
 
 ポケットから数珠を出して、十字を切ろうとしたのですが、
 手が震えて、額のところに持ってゆくことができませんでした。
 とても怖かったのです。

 その女性は、手首に巻いていた数珠をとって、十字を切りました。
 私も、もう一度やってみると、
 今度はうまく十字を切ることができました。
 十字を切ると、すぐに、私のなかにあった怖れの気持ちが
 消えてなくなりました。
 
 私は跪いて、その女性と一緒に祈りの言葉を誦えました。
 女性は祈りの言葉を誦えながらも、その唇は動いていませんでした。

 ロザリオの祈りが終ると、その女性は私に向かって手招きをしました。
 でも私は、とても近づくことができませんでした。
 すると、急にその女性は消えてしまったのです。

 私は気が動転して、あわてて他の二人と一緒に家に帰りました。
 帰る途中、二人に「何か見なかった?」と尋ねました。
 見なかったという答えだったので、もう一度同じことを訊きました。
 二人は「何も見なかった。」と答えたあとで、私に
 「何か見たの?」と訊くので、私は、
 「あなたたちが何も見なかったのなら、私も何も見なかったのよ。」
 と答えました。

 私は、錯覚か何かだったのだろうと思いました。
 妹たちが、しつこく尋ねるので、「他の人には言わない。」
 という約束で、私が見たことについて話しました。

 二人は誰にも言わないと約束したのですが、
 家に帰るとすぐに喋りたくなって、全てを喋ってしまいました。
 両親は、このことを悪くとって、私と妹は母に叱られ、叩かれました。
 そして、もう洞窟に行ってはいけないと言われました。

     ∽     ∽     ∽     ∽     ∽ 

 薪を拾いに行くにも、ポケットに数珠を入れているというのが、
 なんとなくスゴイですね。
 そういう時代だったのか、あるいはそういう家庭だったのか、
 両方だったのかもしれないけれど。

 それから、川はGAVE川といって、蛇行しながら流れているのですが、
 当時は、少し上流からこの洞窟の辺りまで、
 細い支流のような流れがあり、三人が渡ったのはそちらの川です。

                                 (つづく) 

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 【近ごろのフランス】

 怪鳥コンコルドの引退が決まりましたね。
 27年も飛んでたっていうから、よく頑張ったほうだよね。
 日本の航空会社は、同じヒコーキをそんなに長く使わない筈です。
 適当なところで(10年だったかな)、中古として売ってしまうとか。
 だから、その分チケットが高いっていう噂だけど、ホントかな。

 パリからニューヨークまで、ジャンボだと約7時間ですが、
 コンコルドだと3時間半くらいです。
 2000年7月に、エール・フランスのコンコルドが、パリ郊外に墜落。
 2001年の11月に運行が再開されましたが、テロの後で、
 92ある座席は半分くらいしか埋まらなかったそうです。
 今回のイラク戦争が始まってからは、それがさらに落ち込んで
 20%くらいだったとか。
 だから、飛ぶ度に赤字だったそうです。

     ∽     ∽     ∽
 
 3月17日にパリのリヨン駅のコインロッカーから、
 猛毒リシンが見つかったというニュースがありましたが、
 結局マチガイだったみたいです。 粉末を分析した結果、
 小麦の胚芽と大麦の粉であることが判明しました。

     ∽     ∽     ∽

 夏時間になってから、急に日が長くなりました。
 日没が20時半くらいです。 夜は、まだちょっと寒いけど。

         2003年4月14日      Michio

 追伸

 「北欧の旅」の補足的な文章を、ホームページの方にUPしました。 

    URL . http://members.goo.ne.jp/home/michion2

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 めろんぱん    http://www.melonpan.net/mag.php?002474
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 解除は、登録されたところでお願いします。
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                      じゃあ またね


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